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月刊☆臥看牽牛織女星

15年の空白を経て宝塚観劇を再開。失われた時を取り戻すためのスカイステージ鑑賞記録をぼちぼちと綴ります。

三島由紀夫の肉声テープに上田久美子先生の行く末を思う「金色の砂漠」2

花

 

高校時代、真夜中に読み終わった「金閣寺」に興奮して明け方まで一睡もできなかったことをおもいだすわ~。

それから、他の作品もあれこれ読んだり、
難しくて途中で投げ出したり大人になってもう一度「金閣寺」を読んだら、
なんであんなに興奮したのかはよくわかんなかったけど好きな作家だった三島由紀夫
(年とともに心が錆びたのね~きっと…)

まぁ、いろいろ読んだ本の内容は
もう殆ど忘れてしまったけど~。 

インタビューに答える三島由紀夫の肉声テープが
TBSで発見されたとのこと。

その内容を聞くと、なんとなく、
上田久美子先生について考えさせられることが…

そうつまり
「金色の砂漠」の余韻に浸る毎日を送っているわけですよ。

  

三島由紀夫の言葉

人生や思想が素材ではない。言葉がマテーリアル(素材)だ


上田先生は宝塚の演出家の中で
もっとも言葉に力を入れている人だと思う。

その背後にある作者の思想やらなにやらより
言葉自身が大切にされている。
売り切れで買えなかったけど「ル・サンク」で文字だけで読んでも、
おそらく完成体として読み応えがあるんじゃないかしら。

そんな練り上げられた言葉で舞台が埋め尽くされるのは
とても心地よくもあるのだけれど
一方で、演者の表現力を、
スターパワーで行間を埋める事ができるという
宝塚ならではの特殊能力?を
もう少し信じてもいいんじゃないかな~とも思う。

贅沢なイチャモンだと重々承知ではあるのだけれど
なんというか、1ミリもゆるがせに出来ない窮屈さを
感じてしまうのだわ。

 

川端康成の文章に関しての三島由紀夫の感想。

そりゃ怖いようなジャンプするんですよ。ベーンと次のラインに飛ぶ。僕ああいう文章書けないな、怖くて。

だから今後、もっと空間感覚が洗練されていって、
緻密なセリフのやりとりだけではない
つまりベーンと次のラインに飛ぶような感じが舞台に生まれたら、
ほんと無敵だろうな~と思った。

文字だけの世界においては、
それはなかなか怖くて出来ないかもしれないけれど
舞台なら、というか舞台なればこそ
演者の力とか、舞台空間を活用して
そういう表現が出来ると思うのだが。

 

三島由紀夫の言葉

僕の文学の欠点は小説の構成が劇的すぎることだと思う。

しかも家に帰ってプログラムを見たら、プロローグのあの砂漠の骸。
ちなつ(鳳月杏)とゆきちゃん(仙名彩世)が演じていたのね!!

といっても、アレは砂漠の王と王妃の骸という設定ではないのでしょう。
おそらく、王と王妃の宿業を受け継いだ二人…
だったのね。たぶん。

我々観客は芝居を見た後にこの配役に気づくことで
物語がこの砂漠の二つの骸に始まって
そして最後に再び同じ二つの骸に収斂されていく…。
その宿業を思いしらされるわけだ。 

その上、この砂漠の場面で彼らの身内である
ジャーとビルマーヤがこの二つの骸を見ているのよ!
にも関わらず、それが誰なのか気がつかない。

つまり、もう誰だかわからないほどの姿に・・・(以下自粛)
なってしまっているってことなのね。

こ、怖いな上田先生。

 

そしてもう一つ。
物語の冒頭、キキちゃん(芹香斗亜)が自分が語り部である理由を話すところ。
後で思い起こすと、ここも凄いんだわ。
「みんなもう、いなくなってしまったから」
みたいなセリフだったよね。確か。

つまり彼の知る限りの人間はすべて、
死ぬか行方知れずになっているってことなのね~。
そう、彼が身内のように一生守っていくと誓った、
愛するビルマーヤと引き取った赤ん坊ですら
あの砂漠の旅の中で、生き残ることはできなかったのだろうか…(愕然)

ジャーとビルマーヤが結ばれてどこかで穏やかに暮らしていってほしい。と
この芝居を見終わった後、多くの人はきっと思ったはず。

そんな宝塚ファン的大甘な思考をバッサリ打ち砕くセリフが
すでに冒頭から仕込まれていたとは…。

まじ、恐いな上田先生。

正直、ここまで容赦なく劇的に物語世界を作っていいものかとちょっと危惧する。

顔もほとんど見えない役をスターにやらせるのがいけない、とか
無残に人が死ぬ話が嫌だ、とか
そういう意味ではないのよ! 

プロットが少々甘かろうが強引だろうが、そんなことは物ともせず
ただ、ひたすら愛と夢と希望を描き続けてきた宝塚。
上田先生の描きたい濃密で劇的な物語
そんな宝塚ならではの世界観と乖離してしまわないだろうかと
なんだか不安になるのよ。 

そしてもし、上田先生が自分の作品を
そんな宝塚で上演することに
意味を見出さなくなってしまったら
かつての荻田浩一先生のように、
宝塚を去ってしまうのではなかろうかと…
すごく心配になってきてしまったのだ。 

今回のように濃密な世界に引き込まれる作品をこれからも、ずっと観ることが出来たらこれほど嬉しいことはないけれど

この才を
ただひたすら宝塚だけのために!
というのは、もしかしたら難しいかもしれない…。

なんてことを、三島由紀夫の肉声テープ発見のニュースを見ながら
つらつら思ったわけです。

当たらなければ、それでいいんだけどな、この予感…。

 

演出家退団の分水嶺はこのあたりなのかしらという記事はこちら。